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2013/04/02 (Tue) 汚れなき祈り(映画館で鑑賞)

汚れなき祈り

原題   După dealuri(英題:Beyond the Hills)
公開   2012年
上映時間 155分
製作国  ルーマニア

監督   クリスティアン・ムンジウ
脚本   クリスティアン・ムンジウ
原作   タティアナ・ニクレスク・ブラン『Deadly Confession』『Judges' Book』

出演   コスミナ・ストラタン    ···ヴォイキツァ
     クリスティナ・フルトゥル  ···アリーナ
     ヴァレリウ・アンドリウツァ ···司祭


あらすじ
 ドイツに出稼ぎに行っていた身寄りのないアリーナは、同じ孤児院で育ったヴォイキツァに会うため故郷のルーマニアに戻ってくる。しかし、修道院で暮らし、信仰に目覚めたヴォイキツァとは、以前のように心が通わなくなり、アリーナは精神のバランスを崩していく。そしてそれが悪魔の仕業とみなされ、悪魔祓いの儀式が執り行われることになり……。





評価:4.5点(5点中)


レビュー
 2005年にルーマニアで起きた「悪魔祓い」事件について、ジャーナリストが書いたノンフィクションを原案としている。題材が題材だから、異色の作品となることは間違いない。事実、この映画と似た物は思いつかない。

 ほとんどのシーンにおいて、この映画は完璧に近いクオリティを保ち続けている。様々な要素、例えばヴォイキツァとアリーナの友達以上の関係性や修道院の盲目的な考え方、ずさんな病院の体制、など多くを盛り込んでいるにも関わらず、そのすべてを緻密に描くことに成功している。
 ドイツで出稼ぎとして働くアリーナはヴォイキツァも一緒に来るよう誘い続ける。なぜアリーナがルーマニアをそこまで嫌うのか、1人でいるのが嫌ならどうして外国で働くのか。そういったことの明確な理由が明かされることはないが、豊かな感情表現のおかげで不思議と説得力が生まれる。また孤児院で一緒に育ったヴォイキツァに対し、過剰と言える依存を見せる点も理由は分からない。だがあえてバックグラウンドを描かないことで、サスペンスにありがちな説明過多となる語り口を避け、謎めいた雰囲気を残したままにする。これにより、元々不明瞭な点が多い事件の曖昧さを浮き彫りにし、観客の不安を煽ることにも成功している。

 どんなシーンにおいても、どことなく不穏な空気が流れているのは妙にリアルで静閑な描き方が原因だろう。明らかに現代とはミスマッチな存在である“丘の上の修道院”と、そこに住む司祭と修道女。彼らが単調な活動を延々と繰り返している様は、「正教会」というれっきとした宗教であると知らなければ、その厳格さは異様な物に映る。
 そんな場所に現代的な格好をしたアリーナがくれば、バランスを保っていたその狭い世界も急速に崩壊を始める。このように、視覚的にも「現代人にとって」不思議な世界が一層物語を際立たせている。

 とはいえ、日本人にとって馴染みのない“ルーマニア”という国であるから、物珍しい気もするのだろう。しかし表面的にエキセントリックであっても、記憶に残る映画は生まれない。私が考えるに、最もこの映画に貢献しているのは俳優たちだ。
 どの出演者も不自然な点は一つも見せない。精神に異常をきたすアリーナを演じたフルトゥルは、目で演技ができる。ヴォイキツァ以外の人間には一切心を開かず、その瞳に映るのは底なしの悲しみだ。唯一頼れる存在であったそのヴォイキツァですらも、「神」という形のない存在に奪われ、その怒りを修道院の人間にぶつけることになる。
 ストラタンは自分の信念と友情との間で揺れるヴォイキツァを好演。もの静かで穏やかな人物だが、誰よりも冷静に物事を見つめることができる。アリーナをどうにかして“治療”しようとする司祭たちの行動に疑問を抱く様も非常にナチュラルで、彼女の感情の変化が手に取るように分かる。
 そしてある意味で最も異常とも言える修道院の面々。彼らは盲目的に宗教的な行いを信じ込み、大きな問題に直面しても形のない存在にすがろうとする。例えば修道女たちは無知が故に自分たちの行いが、良い結果を生むと信じ込んでいる。だからこそ彼女らが暴れるアリーナを板に縛り付ける場面は目を背けたくなる。仮にアリーナが精神病だったとしたらあまりに時代錯誤で馬鹿げた行動だ。
 そして修道女をまとめる司祭。全面的な信頼を置かれている彼もまた、自分が神の力を借りてアリーナを治療できると信じて疑わない。というよりは、唯一事実に気づいているが、修道女たちの手前見栄を張ることになったのだろう。そういった司祭の行動がヴォイキツァの不信感を生むことになる。

 これらの要素に、精神病院での話や里親のエピソードなどが見事に噛み合わさり、事態が悪化していく様をスムーズに描いている。だが一つだけ、エンディングはあまりにも呆気ない。人間の無意識から生まれる悪意や宗教への盲目的な信仰といった問題を興味深く描いておきながら、最後はただの「異常な事件」として終わらせてしまっている。映画的な面白さを生むために過剰な演出をしろ、というのではない。しかし「汚れなき祈り」はジャーナリズムそのものではない。実際の事件をモチーフに、人間の根底にある感情をもっと掘り下げてほしかった。

 そうはいっても、この映画が一級品であることは疑いようがないだろう。サスペンスとしての面白さを損なわず、芸術映画らしい洗練された演出も兼ね備えている。一度見たら忘れられない、恐るべき秀作だ。

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2013/03/22 (Fri) ジャンゴ 繋がれざる者(映画館で鑑賞)

ジャンゴ 繋がれざる者

原題   Django Unchained
公開   2012年(アメリカ)
上映時間 165分

監督   クエンティン・タランティーノ
製作   ステイシー・シェア/レジナルド・ハドリン/ピラー・サヴォン
脚本   クエンティン・タランティーノ

出演   ジェイミー・フォックス  ···ジャンゴ・フリーマン
     クリストフ・ヴァルツ   ···ドクター・キング・シュルツ
     レオナルド・ディカプリオ ···カルヴィン・J・キャンディ


あらすじ
 南北戦争直前の1858年、アメリカ南部。黒人奴隷として売りに出されたジャンゴは、元歯科医の賞金稼ぎでキング・シュルツと名乗るドイツ人に買われる。差別主義を嫌うシュルツはジャンゴに自由を与え、賞金稼ぎとしての生き方を教える。ジャンゴには生き別れになったブルームヒルダという妻がおり、2人は賞金を稼ぎながら彼女の行方を追うが、やがて残忍な領主として名高いカルヴィン・キャンディのもとにブルームヒルダがいるということがわかり……。





評価:4.5点(5点中)


レビュー
 実はこの映画が映画館で見た、初のタランティーノ作品である。タランティーノが西部劇を撮ると聞いただけでワクワクするのだが、予想を色んな意味で上回る出来であった。

 オープニングからしてタランティーノらしいB級感溢れる演出だ。「続・荒野の用心棒」で用いられたテーマを“Django”繋がりで使用。ロゴの雰囲気も明らかにマカロニ・ウェスタンを意識していて、ファンならば早速引き込まれるはずだ。

 そこからはお約束の展開が待っている。ジャンゴを買うために、キング・シュルツは速攻で奴隷商人を撃ち殺し、2人の旅路が始まるのだ。
 ここからカルヴィンの屋敷に向かうまでの前半のくだりは文句なしの出来栄えである。タランティーノはお得意の「コミカルなバイオレンス」を披露しつつ、お目当ての賞金首を始末していく2人の姿を最高にクールに描く。私が思うにタランティーノは「かっこよさ」を完璧に近い形で理解している。本当にかっこいい奴はどこかしら変なのだ。
 例えば主演のジェイミー・フォックス演じるジャンゴが一番かっこいいのはいつなのか。それは自分の妻に暴力を振るってきた悪人三兄弟に、突飛な服を着たまま復讐をするときだ。袖に隠した銃で相手の胸に穴を空け、決め台詞を言う。ダサいはずなのに、最高にキマっている。

 さらにこの前半部分では殺害シーンが非常に軽い。もちろん良い意味でだ。ここにはタランティーノが偏愛する「殺しの美学」がふんだんに詰め込まれている。綿花畑でキング・シュルツが三兄弟の最後の1人を撃ち殺す場面では、真っ白な綿花に大量の血がほとばしる。残酷だが、この演出はタランティーノと彼が敬愛するバイオレンスアクションの先人たちにしかできない、見事なセンスで飾られた映像だ。

 問題はここからだ。カルヴィンと出会ってからのストーリーは、軽快、というより陰惨なジョークに満ちてくる。
 顕著なのは、カルヴィンが趣味で行う「マンディンゴ・ファイト」である。これは金持ちが自分の奴隷を剣闘士に見立てて、他の奴隷とどちらかが死ぬまで戦わせるという非常に悪趣味なものだ。もちろん史実にはこういった見せ物が行われた記録は無い。つまりタランティーノの創作であるのだが、彼らしくない生臭い演出だ。相手の目をつぶし、金槌で頭蓋骨を叩き割る。これだけ聞くといつもと同じに聞こえるが、爽快感の欠片もなく不快感に満ちている。
 この他にも、脱走した奴隷を生きたまま犬に食わせたりとやりたい放題だ。確かにタランティーノは奴隷制度の生々しさを本気で観客に伝えようとしていた。ある意味でその意図は理解できたが、彼が得意とするのは「罪悪感を伴わない殺人」だ。奴隷制の悲惨さについて、過剰な演出で説教されても逆効果だ。第一、彼の持ち味のスピード感がこれらの場面でかなり失われる。

 さらにタランティーノはこの悲惨な実態を暴くために、好都合なキャラクターを用意した。それがクリストフ・ヴァルツ演じるドクター・キング・シュルツである。彼はドイツ出身の賞金稼ぎだが、「奴隷制度の無い国から来た」というだけで奴隷制度を忌み嫌う。実際はそれが正しいことだろう。おそらく私たちもあの現状を目の当たりにしたら不快感を催すに違いない。だがそれでは彼が命を賭けて、ジャンゴの手助けをする理由にはならない。逆に、得体の知れないドイツ人をジャンゴがあっさり信用する理由にもならない。
 しかしさすがはクリストフ・ヴァルツ。バックグラウンドに欠ける人物でも、彼が演じることで不思議と説得力のあるガンマンに変貌する。そもそも最も「かっこいい」人物を選ぶなら間違いなく彼だ。独特の皮肉ぶった笑い、賞金首となれば(たまに賞金首でなくても)あっさりと殺すそのスタンス。その割には虐げられる奴隷を見たら、何が何でも救おうとする。こういった矛盾した要素を持ち合わせるのに、そのすべてを完璧に統合し、見ている間は一切の疑問を抱かせない。とてつもなく魅力的で素晴らしい役者だ。この映画の空気は全部彼が作っていると言っても過言ではない。

 ジェイミー・フォックスのジャンゴも悪くない。劇中ほとんど笑わないが、彼とヴァルツのコンビそのものはかなり笑える。タランティーノ的には至ってまじめな人間だから、締める所はきちんと締めてくれるし、終盤の乱戦もかなり見応えがある。なにかと披露する決め台詞もダサかっこいい。
 しかしこの映画の重苦しい部分も彼が同時に作り出している。妻に行われた拷問シーンを回想し、怒りに燃えるジャンゴ。その気持ちは大いに分かるが、タランティーノには道徳を述べる力は無い。「キル・ビル」も同じタイプの話だが、あちらは道徳観念をかなぐり捨てていたので、彼の持ち味を存分に生かしたアクションとして成立していた。こちらのストーリーの骨子はしっかりしているのだから、もう少しくだけたキャラクターが主人公でも良かったのでは。

 この2人の正義の味方も良かったが、ベストはディカプリオ演じる残忍なカルヴィン・キャンディだ。彼が放つ残忍なオーラは見る者も黙らせる。こちらを見て、ニタリと笑うだけでどんな人物なのかが一目瞭然だ。金に目がくらみ、偽の商談に騙されている間も、一切の気の弛みを許さない。そんな彼が騙されたと分かったらどうなるか。ディカプリオ渾身の怒り狂う演技は見応え抜群だ。カルヴィン・キャンディが狂気をはらんだブラック・ジョークそのものであることを全身で表現していて、彼が出ている間はクリストフ・ヴァルツでさえ食われている。
 ただアカデミー助演男優賞にはノミネートすらされなかった。これは明らかにモラル的な問題だろう。素晴らしい演技だったが、その役柄は奴隷制度を茶化したものだ。奴隷制度に我慢できなくなり銃を引き抜くクリストフ・ヴァルツを選ぶ方がずっと感じが良い(もちろんヴァルツが素晴らしいのも確かだが)。

 バックに流れる選曲も完璧で、安っぽさをあえて出したカメラワーク(人物の顔に急に寄るカメラなど)もスタイリッシュなシーンとのメリハリが利いていて楽しませてくれる。だが先ほど指摘した重苦しい雰囲気のせいで長丁場に感じることもあるだろう。当然見終わった後はドッと疲れが出てくる。だがタランティーノの今までの映画と同じく、「ジャンゴ」は見たことがあるのに、今までに無い形の新しい映画として成立している。びっくりするほど良くできた娯楽映画の傑作だ。

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2013/03/12 (Tue) ゼロ・ダーク・サーティ(映画館で鑑賞)

ゼロ・ダーク・サーティ

原題   Zero Dark Thirty
公開   2012年(アメリカ)
上映時間 157分

監督   キャスリン・ビグロー
製作   マーク・ボール/キャスリン・ビグロー/ミーガン・エリソン
脚本   マーク・ボール

出演   ジェシカ・チャンスティン ···マヤ
     ジェイソン・クラーク   ···ダン
     ジョエル・エドガートン  ···パトリック


あらすじ
 9・11テロ後、CIAは巨額の予算をつぎ込みビンラディンを追うが、何の手がかりも得られずにいた。そんな中、CIAのパキスタン支局に若く優秀な女性分析官のマヤが派遣される。マヤはやがて、ビンラディンに繋がると思われるアブ・アフメドという男の存在をつかむが……。





評価:4.5点(5点中)


レビュー
 昨今の世界で起きた事件の中でも、最大の驚きを持って迎えられたのが「ビン・ラディン殺害」であろう。元々ビン・ラディンの捜索に四苦八苦するCIAを描くつもりだったらしいが、この一報を聞いて急遽脚本を変えたらしい。正直そのニュースを聞いたときは「どうなることやら」と思っていたが、それは私の完全な思い違いであった。

 まず映画は9.11のときに様々な人の間で交わされた電話のコラージュからスタートする。画面は真っ暗のまま、人々の恐怖を音声のみで描き切っている。このシーンに代表されるように、「ゼロ・ダーク・サーティ」は全編を通して音響効果が素晴らしい出来映えだ。爆破のシーンも、電話の盗聴も、終盤の作戦決行時も「音」が映画の持つ異常なまでの緊迫感を生んでいる。

 CIAによる捕虜の拷問シーンも前半では盛りだくさんだ。容赦ない水責めに合わせたり、陰部を露出させたまま首輪をつけて狭い箱の中に閉じ込める。オバマがあれほど捕虜への拷問を禁止すると言っていたのもうなずける、凄まじい描写だ。
 ビン・ラディン殺害に成功したCIAを、ただ賛美するだけに終わらないゆえんはここにある。このシーンだけでなく、CIAに批判が飛んで拷問を取りやめた後半でも、「拷問」がいかに有効な手段かを暗示する台詞が登場する。極悪非道のテロリストを洗いざらい見つけ出すために、極悪非道な手段をとるのだ。いかに「大義」というものが不安定なのかを指し示している。

 こういったシーンの冷酷さが際立つのは、"The Killer"と呼ばれるマヤを演じたジェシカ・チャンスティンによるところが大きい。今まで彼女が出演した映画をいくつか見たが、毎回まったく異なる役柄に完璧になり切る。今回も例外ではない。捕まえたアルカイダの幹部を尋問する時でも欲しい情報を吐かなければ、傍にいる男性の軍人に殴るよう促す。人間がする行動とは思えないことを繰り返し、精神が疲弊していく様は時折描かれるが、それでも申し訳程度だ。ひたすら全面に押し出されるのは、ビン・ラディン捜索のためなら何をすることも厭わないマヤの冷酷さと異常な執着心だ。

 キャスリン・ビグローは「ハート・ロッカー」でもそうだったが、戦時下などの異常な状況における「麻痺した」人間を描くのがとても上手い。拷問を加えた後は優雅にコーヒーをすすっている。こういった場面が今回ではより強調されているが、それに伴い「ハート・ロッカー」のときよりも、個々の人間の内部の描写に欠けているとも感じた。

 というのも、主人公のマヤには最後まで感情移入できない。いくら9.11の主犯であるからとはいえ、彼女のビン・ラディンへの執着心は異常としか言いようが無い。なにしろ上司にすら「気でも狂ったか」と言われる始末なのだ。劇中の人物が理解できないことを観客が理解できるはずが無い。憎悪にも似たその感情をもう少し丁寧に描けば、ラストシーンもより深みが増したのではないだろうか。
 その他の人物も同様だ。すべての人物が「ネプチューン・スピア作戦」実行までの駒に過ぎず、それまでに感じる葛藤などは「ほぼ」見えてこない。「ほぼ」というのは、作戦決行時に一兵士が困惑した表情を見せるシーンがあるからだ。だがそんな彼もコードネームで呼ばれる特殊部隊の1人でしかなく、あまりにも大きな事件の影に埋もれてしまっている。

 さらに「ビン・ラディン殺害」に対する監督なりの考えも一切見えてこない。いや、オリバー・ストーンのように自分の考えをゴリゴリ押し付けてくるのもどうかと思うが、「ゼロ・ダーク・サーティ」は一定の筋道ですら見せない。
 そもそもキャスリン・ビグローは社会派映画監督ではない。彼女は一流のアクション映画監督だ。自分の得意分野を理解しているからこそ、テロリズムにおけるイデオロギーを映画に込めるのではなく、作戦決行までの張り裂けそうな緊迫感を描く方を選んだのだ。
 だがこんなにタイムリーな題材を用いているのだから、何か「一つの答え」を提示することはできなかったのか。「ゼロ・ダーク・サーティ」が映画史に残ることは間違いないのだから、もう少し大胆なアプローチもを取っても良かったのではないだろうか。

 しかし先ほども言及した通り、キャスリン・ビグローは最高のアクション・サスペンス監督だ。テロリストによる自爆テロの場面はあまりのことに見ているこちらも息を呑む。会議室のシーンでさえも、(ビン・ラディンの潜伏先を発見してからは、あまりにもじれったいが)捜索に必死になるCIAたちの対決が見られる。ほとんど戦闘シーンは無いが、2時間半の上映時間で飽きがくることはまったくない。
 そして何と言っても、終盤の作戦決行のシーン。彼女の手腕が遺憾なく発揮された、手に汗握ること間違いなしの名場面だ。通常のカメラと緑色の暗視カメラに切り替えることで、闇夜に浮かぶ特殊部隊の不気味な姿が一層不安感を煽る。銃撃が開始されても、むやみやたらに撃つことは無い。標的を確実に、かつ静かに仕留め、倒れたその体にも銃弾を撃ち込む。冷静さと残酷さを兼ね備えた、リアリティあふれる場面だ。

 おそらくアルカイダに関連した映画はこれからも製作されることだろう。しかし、事件後わずか1年半後に公開された点、それでも最高のクオリティを保っている点でこの映画は歴史に名を刻むだろう。必見の作品である。

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2013/02/09 (Sat) ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日(映画館で鑑賞)

ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

原題   Life of Pi
公開   2012年(アメリカ)
上映時間 127分

監督   アン・リー
製作   アン・リー/ギル・ネッター/デヴィッド・ウォマーク
脚本   デヴィッド・マギー
原作   ヤン・マーテル『パイの物語(Life of Pi)』

出演   スラージ・シャルマ···パイ・パテル
     イルファーン・カーン···パイ・パテル(成人)
     タブー···ジータ・パテル(パイの母)


あらすじ
 1960年インド・ポンディシェリに生まれた少年パイは、父親が経営する動物園でさまざまな動物たちと触れ合いながら育つ。パイが16歳になった年、両親はカナダへの移住を決め、一家は動物たちを貨物船に乗せてインドをたつが、洋上で嵐に遭遇し貨物船が沈没。必死で救命ボートにしがみついたパイはひとり一命を取りとめるが、そこには体重200キロを超すベンガルトラ「リチャード・パーカー」がいた。





評価:4.5点(5点中)


レビュー
 この映画の原作「パイの物語」は既に数多くの賞を受賞している有名な小説らしく、あのオバマ大統領も原作者に手紙を書いたという。
 事実、様々な箇所に、小説を原作に持つ映画特有の展開が見られる。ストーリーは、成人したパイがカナダ人小説家に自分の生い立ちを回想という形で話し始める、というのが大まかな骨子である。だから序盤からいきなりサバイバルが始まるわけではなく、開始30分程度は小話が続く。これら一つ一つの話はユーモアにあふれ、見る人を飽きさせない。しかし全体としてみると、映画の中で最も面白いのは当然パイの漂流シーンであり、2時間ちょっとの映画としては小話があまりにも尺を取りすぎている。ストーリー上重要な役割を果たすものもあったが、いくつかは明らかに必要の無いものだった。小説と映画は違う物だから、どのエピソードをピックアップするべきか見極めないと、伝えるべきテーマがぼやけてしまう。まあこの映画に関してその点は心配いらないが。

 さて、物語の中核を成すパイと「リチャード・パーカー」の漂流だが、この部分は文句なしに素晴らしい。映像面では3Dを存分に生かし、迫力がありながらも繊細で美しい映像を生み出している。ある意味で主役とも言える「海」は生命を容赦なく奪う存在でありながら、それでいて息をのむほど綺麗だ。とてもCGとは思えないが、特に海の中から映し出された映像は非常にリアリティがある。
 そして何と言ってもCGのトラ「リチャード・パーカー」を忘れてはなるまい。目をぎらつかせ、歯を剥き出して吠える様子は本物のトラにしか見えない。時折見せる“感情が宿った”かのような場面でも、ベタに人間臭くならず、あくまで動物としてのトラとしての動きを貫いているから、突飛なはずのストーリーを血が通ったリアルな映画にしている。

 主演のスラージはほぼ演技経験皆無の素人とは思えない演技を披露する。3つの宗教を信仰するパイは精神的な存在である神を信じ続けると同時に、サバイバルブックを見ながらなんとか生き延びようとする。スラージは彼自身が持つ生来の魅力により、相反した要素を持つパイをCG相手に演じきった。彼が「リチャード・パーカー」と真っ向から対峙するシーンは圧巻の一言である。

 こういった様々な要素が見事に組み合わさったことも大きいが、「ライフ・オブ・パイ」が素晴らしいのはそのテーマにある。このテーマが生きたからこそ、非現実的なストーリーや一見単調に思えるサバイバルに深みが生まれたのだ。
 そのテーマは何かと言うと「生と死」そのものである。今まで様々な映画がこれを描いてきたが、そのほとんどは「殺人事件」や「不治の病」など何か別の物を媒介としていた。しかしパイが直面する事態は“生きるか死ぬか”という究極の選択そのものであるのだ。「ライフ・オブ・パイ」だってサバイバルを通しているではないか、と思うかもしれないが一度でもこの映画を見れば私の言いたいことが分かる。
 そもそもパイはそこそこ裕福な中流家庭出身だから、普段の生活に置いては生にしがみつく必要が無い。その代わり彼は3つの宗教を通じることで、普段は感じることのできない生命を感じ取ろうとした。そんな彼が海の中に1人(と1匹)放り出されたら、死を待つしか無い。それなのに彼はなんとか異常な環境に適応しようとする。その彼の変化のプロセスが丁寧だから、なんの疑いも無く物語を信じることができる。彼とトラが食料を求めて争うシーンも、その迫力はパイの「生き延びたい」という心が生み出している。まさに「生きる」ことをストレートに見せたのだ。
 後半部分で彼が到達するある島も、それそのものは残酷なファンタジーで色塗られているのに、パイの行動がリアルだからただの空想には終わらない。そして自分が遭遇する様々なものたちを“神”によるものとするパイの語りにも、説得力が生まれ、宗教の壁を越えた“神”を観客も確かに感じることができるのだ。

 最も素晴らしいのはパイがカナダ人作家にあることを問いかける場面。彼はこの生命力にあふれた美しい話とは別に、血なまぐさいリアリティにあふれたもう一つの「話」をする。こっちの方がいかにも“サバイバル”らしく、普通ならこちらを信じるところだろう。しかもそれぞれの動物が個々の人間に置き換えられていて(はたまたその逆なのか)、ほんの少し話すだけなのに、この「話」にも不思議な説得力がある。
 ここで面白いのはパイが「リチャード・パーカー」を自分自身に置き換えている点だ。ここで観客は初めて知ることになるのだが、パイにとって「リチャード・パーカー」とはすべての物事の象徴である。災難、サバイバル、自然の脅威、仲間、家族、そして自分。「リチャード・パーカーがいなければ、生き残れなかった」という言葉に重みがあるのはそのせいなのだ。
 それらを知った上でパイはカナダ人作家だけでなく、観客にまでカメラを通して問いかけてくる。「君はどっちの話が良いと思う?」
 だが私たちはこの物語から希望を捨てないことを学び、そして感動させられた。どっちが良いかは誰にとっても明白だろう。どちらが正解かなどは関係ない。どちらの話がパイの人生に影響を与えたのか、そして私たちの心をふるわせたのか、それが問題なのだ。

 だからこそ物語の締めくくりは、いささか陳腐にも感じられる。だがパイが神の存在を感じて改めて生きること、そして様々なものとの出会いを再認識したというのも悪くない。
 実は「リチャード・パーカー」はもう一つ、この「出会いと別れ」も象徴している。終盤パイは静かに涙を流し、こう言った。「人生に別れはつきものだ。だが本当に悲しいのはさよならを言えないことだ。」これほど心を打つ言葉があるだろうか。

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2013/02/05 (Tue) 塀の中のジュリアス・シーザー(映画館で鑑賞)

塀の中のジュリアス・シーザー

原題:Cesare deve morire(英題 Caesar Must Die)

監督:パオロ・タヴィアーニ
   ヴィットリオ・タヴィアーニ
脚本:パオロ・タヴィアーニ
   ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演:サルヴァトーレ・ストリアーノ
   コジモ・レーガ
   ジョヴァンニ・アルクーリ


あらすじ
 実際の刑務所を舞台に本物の服役囚たちを起用し、シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」を演じることで起こる囚人たちの変化を描き出していく。ローマ郊外にあるレビッビア刑務所では、囚人たちによる演劇実習が定期的に行われており、ある年、シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」が演目に選ばれる。オーディションでブルータスやシーザー、キャシアスなどの役が次々と決まっていき、本番に向けて刑務所の至るところで稽古が行われる。すると囚人たちは次第に役と同化し、刑務所はローマ帝国の様相を呈していく。





評価:4.5点(5点中)


レビュー
 この映画に出演する俳優たちは一部を除いて本物の囚人だ。しかもそのほとんどが重罪人で、映画を見る限り最も軽い刑でも15年ほどの服役を課されている。そんな彼らによる映画が個性的でないはずが無い。

 映画の構成がとても面白い。他の映画ならおそらく舞台が出来上がるまで囚人たちが練習する過程を追い、最後に完成した舞台を撮影するだろう。だがこの映画は練習風景さえも「ジュリアス・シーザー」のひとつのシーンとして映し出す。だから観客の目には「演技をしている囚人」と「劇の中の人物」が交互に映り、不思議な感覚に囚われる。
 その特徴的なシーンがシーザーを演じるジョヴァンニとディシアス演じるフアンの合わせの場面。なかなか元老院に行こうとしないシーザーをなんとか出席させようとディシアスがおべっかを使うのだが、途中でジョヴァンニが台詞にはない言葉を口にする。フアンが彼の悪口を影で言いふらしている、というのだ。元々の性格が役にぴったりだったのか、役が性格に影響したのかは分からない。だがその場にいる他の役者も、映画を見ている観客も現実と創作物の区別が一瞬つかなくなる。こんな効果を生み出せるのはこの映画だけだ。

 当然囚人たちは素人なので演技指導もされているだろうが、それにしても上手い。なんの背景も小道具もないところで彼らが演技を始めると、途端に目の前にローマの風景が浮かび上がる。
 唯一本物の役者である(といっても'06年までは同じ囚人だった)サルヴァトーレは格別だ。彼は練習時間でないときも演技の練習を続け、役のブルータスに完全になりきる。ある台詞が彼の過去を思い出させるのだが、この場面はまさにこの映画のテーマでもある。「ジュリアス・シーザー」の物語は言ってしまえば裏切りと殺人で色塗られた話だ。登場人物たちと同じように罪を犯した囚人たちには、その台詞のひとつひとつが心に訴えかけるのかもしれない。演技中の彼らも、それが演技なのか本当の感情なのか分からないこともあるだろう。その異常なまでの感情移入が迫真の演技となり、見る者を引きつける。

 どれほどなのかは知らないが、おそらく「現実」と見せかけた演出されたシーンもあるだろう。だが映画に創作はつきものだ。「舞台が完成するまで」ではなく「舞台」そのものを映像化している、と言った方が近いからそれは指摘するポイントではない。重要なのは見ている者の心に響くかどうかだ。現実と虚構の壁を取り払うことで、見る者を惑わせ、感情にダイレクトに伝えてくる。この点では「塀の中のジュリアス・シーザー」は大成功だろう。

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レビュー評価別(クリックで点数別のページへ)

レビュー評価の基準

5点=最高
4.5点〜3.5点=面白い
3点〜2.5点=微妙
2点〜1点=駄作
0.5点〜0点=ゴミ。 

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