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2017/10/11 (Wed) Dolls

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英題    Dolls
公開    2002年
上映時間  114分
製作国   日本

監督    北野武
脚本    北野武

出演    菅野美穂
      西島秀俊
      三橋達也


あらすじ
 とある男、松本は恋人の佐和子と婚約までしたにも関わらずそれを破棄し、勤める会社の社長の娘との結婚を決めた。式の当日、佐和子との共通の友人から佐和子が自殺未遂を起こしたと聞き、松本は式を放り出して佐和子に会いに行く。そこで待っていたのは虚ろな表情で碌に話すこともできなくなった、変わり果てた佐和子の姿であった。そんな彼女を連れ、松本は当てもなく放浪を始めることとなる。





鑑賞日   17年10月10日
鑑賞方法  DVD
評価    2.5点


レビュー
 たけしが持つ暴力性とは正反対の、繊細である意味ロマンチストな部分が存分に発揮された作品です。日本という文化ならではの死生観や色彩感などを盛り込みながら、極力セリフを廃するという彼の持ち味を前面に出した象徴主義とも言えるそのスタイルは、北野映画の中でも異質の存在とも言えるでしょう。彼の意図したテーマが明確に表現された部分も数多く見受けられますが、それ以上に目立つ未完成のままの脚本の骨子と映像構成の粗、そしてチープすぎる「死」というギミックの用い方。「これまでで一番暴力的」とはよく言ったものです。

 上記のあらすじは、実際には映画のパートの一部分に過ぎず、大きく分けてストーリー上3つのパートがあります。一つ目がその松本と佐和子の物語。二つ目がヤクザのご隠居と彼との再会を待ち望む老婆の話。そして最後がアイドルとその熱心な追っかけである男の話。このほとんど接点のない3つの話が四季に沿って描かれながら、映画の冒頭と終盤には文楽の演目(近松門左衛門の『冥途の飛脚』)を挿入するという、一見凝りに凝った構成となっています。もちろんこの映画のテーマである「人形」や「愛と死」を明示するために用いられているのですが、これがなかなか曲者なのです。

 実のところ、文楽のパートによって提示されたテーマを忠実に追っているのはメインの「松本と佐和子」のみとなっているのです。抜け殻のようでいながら子供のような存在となってしまった佐和子を見かねて、松本は彼女を物理的に離さないように互いを赤い紐で結びつけます。そこから互いにほとんど口を開くこともなくなり、現実とも悪夢とも思えない、幻想的な映像がひたすらに映し出されていくのです。その映像は舞台装置のようなライティングを意図して行うことで、「文楽を映像化する」という監督の一つの目標を成し遂げていると言えるでしょう。さらに放浪の旅を続けているにも関わらず、決して汚れることのない二人の服装もまた、現実から乖離し象徴的に主題を表そうとする目論見に沿って、完璧に計算されています。過去の北野映画でも度々見られた「現実において存立する夢想」という映画的表現の一つの到達点になっていることは間違い無いでしょう。

 しかしながらそれらの完成形も、時折見られる安易なカメラワークや画作りによって台無しにされています。また無意味なメタファーも散見され、前半に至っては自らのアイデアの軽薄さを過剰な象徴主義に走ることで取り繕った学生映画のようです。それはおそらく、北野武が論理と経験によって映像を制作する人間だからでしょう。そのために、本人が明確な体験やそれを通した時に味わう感情を知っている場合は、ヒリヒリするようなリアリティと熱に浮かれたような妄想の見事な融合を見せますが、今回のような描きたいテーマが先行した場合にはそれらがちぐはぐになってしまうのです。

 そして残りの2つのパートに、論理だけで作り上げられたツケが回ってきているのは明白です。「アイドルと追っかけ」のエピソードには光るものはあるものの、2000年代にしてはやや古めなオタク描写や作り込みの甘さが目立ち、さらには映画全体のテーマとあまり上手に噛み合っているとは言えません。特にその結末は酷いもので、詳しくは後述しますが、「死」というこの映画における大きなテーマを台無しにしてしまうほどです。
 「隠居のヤクザ」に至っては、学芸会レベルの出来で開いた口が塞がりません。監督が自身のヤクザ映画の出来損ないのコピーを作っているようなもので、登場人物にまつわるバックグラウンドや長年の人生から見える様々な情感は全く期待できません。「松本と佐和子」だけでは長編映画としての尺が足りないことで付け足されたことは明らかで、文楽というモチーフがあったことをすっかり忘れてしまうほどに、物語の軸から離れたテイストになっています。

 以上の大筋自体もかなり粗があるのですが、何と言っても重要な「死」の用い方が絶望的に酷いのです。監督は以前、これに関するインタビューで「過ちを犯した者が後悔したのちに改心しようと試みるも、それが達成される前に死を迎えてしまう」といった内容の発言をしていた記憶があります(出典が分からず申し訳ありません)。それに対しては重ね重ね同意できることでしょう。実際映画のギミックとして、幸せに到達する直前に訪れる悲劇というものは一種のカタルシスとして機能するものであり、多くの映画でも採用されています。しかしそれが本当に機能するには、そこに至るまでの人物たちの感情の揺れ動きや緻密に描かれた関係性が不可欠であり、それらが不足したまま仮に登場人物が死を迎えたとしても、それが観客に残すものは何もありません。文字通り無駄死になのです。
 残念ながら、「松本と佐和子」以外のエピソードはこの悪手を地で行ってしまいました。埋め合わせとして用意されたのだから当然ですが、「死」を描くための道具としてしかキャラクターが働いていないのです。結果としてテーマを浮かび上がらせるどころか、その意味を希薄にし、映画が持つポテンシャルを見事なまでに潰してしまいました。

 ですが、メインストーリーではその逆で、徹底した象徴主義で描かれているにも関わらず、「死」にきちんと意味を持たせている点はさすがでしょう。その理由は、終盤の松本と佐和子の見せる表情に全て込められています。それまでの徐々に人間から離れていき、人形のような無機質な存在(物語上のメタファーの一つ)と成り果てた二人が最後に人間的になる瞬間は、ただ文楽を映像媒体に移植するのではなく、映画自体が本来持つ魅力へと昇華させることに成功した時そのものなのです。それがあるからこそ、それまでの過剰なメタファーのオンパレードが意味を成し、結末にも奥深い絶望とともに一種の救いが生まれました。

 総合的に見て、もう一度見たいと思える作品ではありませんし、映画そのものへの感想というよりも、素材を活かしきれなかったという残念な気持ちだけが心に残ってしまいました。もしかしたらアイデアはあったものの、商業的側面などから動的なエピソードを盛り込んだのかもしれません。とはいえ、どんな理由にせよ、いっそのこと無理に長編にせずに中編作品として仕上げても良かったのではないかと思うほどです。最近刊行された監督の手による小説『アナログ』も本人は映画化したいそうですが、いやはやどうなることでしょうか。時代に生き遅れ、死を間近に控えたアナログ世代の慰めにしかならないような安易な映画にならないことを祈ります。

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