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2017/10/13 (Fri) 櫛 - 夢博物館から

comb.jpg


原題    The Comb (From The Museums Of Sleep)
公開    1990年
上映時間  18分
製作国   イギリス/フランス

監督    ブラザーズ・クエイ (スティーブン・クエイ/ティモシー・クエイ)

出演    ジョイ・コンスタニーニデス
      ウィトルド・シェイボル




鑑賞日   17年10月13日
鑑賞方法  Blu-ray
評価    4点


レビュー
 こちらは『ストリート・オブ・クロコダイル』に比べると、より“悪夢”といった趣が強い作風に仕上がっています。テリー・ギリアムによる『Dr.パルナサスの鏡』の夢のシークエンスにおけるハシゴの場面は、この映画からダイレクトに(ほぼパクリといっていいほどの)影響を受けています。それだけインパクトの大きい作品であることの証拠なのです。

 一定の流れがあることはこちらでもなんとなく察することはできますが、これを論理的に文面で説明するのは不可能に近いでしょう。実写パートで出てくる女性の夢の内容がストップモーションで表現されていて、おそらく彼女の中で強いイメージとなった櫛が悪夢のモチーフとなっています。しかしながらそれらの関連性や、度々登場する性的な暗喩などが意味するものを具体的に指し示すことは難しいのです。強いて言うのであれば、実際に私たちが見る「夢」が持つ表象にはかなり忠実だと言えます。合理性に欠ける場面の連続や、不気味であるにも関わらずずっと見ていたいという矛盾した感情が沸き起こる点など、(あくまで個人的な考えですが)睡眠中に見る夢に覚える感触にそっくりなのです。まさに夢博物館という副題に沿う内容です。

 外的な部分に関して言及すると、遠近感を意識しつつも二次元的な構図が多いのも特徴的で、見かけの衝撃だけでなく、兄弟によって作品ごとに綿密なアイデアも組み立てられていることが裏付けられます。埃っぽい薄汚さと同時にどこか洗練されていて、スチームパンク的な要素も見られた『ストリート〜』と比較すると、より退廃的で露骨に恐怖感を煽る造形の人形になっているのもそういった工夫の一つでしょう。

 色々と説明しても、やはり直接見るのには敵いません。もし少しでも惹かれるものがあれば、あなたもクエイ兄弟の世界から抜け出せなくなるに違いありません。

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2017/10/13 (Fri) ストリート・オブ・クロコダイル

street_of_crocodiles.jpg


原題    Street of Crocodiles
公開    1986年
上映時間  21分
製作国   イギリス

監督    ブラザーズ・クエイ (スティーブン・クエイ/ティモシー・クエイ)
原作    ブルーノ・シュルツ 『大鰐通り』

出演    フェリクス・スタウィンスキ





鑑賞日   17年10月13日
鑑賞方法  Blu-ray
評価    4点


レビュー
 実のところクリストファー・ノーランが“Quay”という短編ドキュメンタリーを製作するまで、クエイ兄弟のことはまったく知りませんでした。しかしある界隈においては非常に名の知れた存在で、テリー・ギリアムやティム・バートンといった悪夢のような映像表現を好む製作者たちに数々のインスピレーションを与えてきたそうです。特に今作『ストリート・オブ・クロコダイル』は兄弟のフィルモグラフィにおいても屈指の傑作と言われ、イギリスの著名な映画誌“Sight and Sound”上である批評家から歴代映画ベスト10に選ばれたこともあるそうです。

 このレビューであらすじを記載していないことからお分かりかと思いますが、彼らの作品の多くは明瞭なストーリーが存在せず、不条理文学の世界をそのまま映像化したような場面が続きます。ここで展開されるのは、無機物たちが地面を這う虫や千切れた手足のように生々しく蠢くなんとも不気味な世界と、そこに放り込まれた主人公らしき男の人形の顛末です。もちろんその物語にオチも何もあったものでは無いのですが、不思議なことにある一定のペースと流れは確実に存在し、自身の眼前になぜこれが存在するのか理解できなくても、多くの人はそのクラクラするような強烈なイメージの箱に引き込まれることでしょう。

 またビジュアルも際立っており、箱の中に赤黒いサビで覆われた廃墟のような街並みが展開されているというコンセプトも非常に魅力的です。随所に登場する仕掛けとなる紐の数々も先行きの分からない不穏さとじっとりとした緊張感を暗示していて、直接的な描写が少ないにも関わらず、どことなく不愉快さを感じさせる奇妙な感触としてこちらに伝わってきます。

 さらに映像表現においても特筆すべき点は多いのです。遠近感を意識したフィルム撮影、鏡・ガラス越しに映った対象物を捉えるカット、自然光を意識した照明など見事な場面の連続で、ストップモーションアニメのみならず実写映画にも影響を与えたことが頷けます。実際これを見た後だと、前述のクリストファー・ノーランによる初期の作品群がクエイ兄弟の影響を受けていることは明白です。

 じわりじわりと観客を引き込んだ最後に原作のモノローグで唐突に終了してしまうという、突き放すようなエンディングは単純に安易な選択と思えて仕方ありませんが、そこに至るまでの過程は唯一無二のものでしょう。芸術を表現するツールとしての映像をよく理解する人間だからこそ描写できる、混沌としながらも美しい作品です。是非とも原作、そして彼らに影響を与えた芸術家たちについて学んだ後にもう一度触れてみたいと思わされました。

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2017/10/11 (Wed) Doodlebug(原題)

doodlebug.jpg


原題    Doodlebug
公開    1997年
上映時間  3分
製作国   イギリス

監督    クリストファー・ノーラン
脚本    クリストファー・ノーラン

出演    ジェレミー・セオボルド


あらすじ
 神経質そうな男が、自分の部屋にいる“虫のようなもの”をどうにか潰そうとする。





鑑賞日   17年10月11日
鑑賞方法  Blu-ray
評価    3点


レビュー
 クリストファー・ノーランが、商業作品以前に作った短編作品のうちの一つです。その他に存在が知られているものとして、大学在学中に作成された“Tarantella”と“Larceny”があります。前者はインディペンデント系の映像作品を放送する番組にて放映され、後者は映画祭に出品され大学史上最高の短編映画とまで言われたそうですが、残念ながらそのどちらも今の所はソフト化されていません。なので、日の目を見た作品、という意味でいうと最初の作品になるのがこの“Doodlebug”です。ちなみにこちらは日本ではソフト化されていませんが、海外ではクライテリオン社によるノーランの初長編作『フォロウィング』のブルーレイに特典として収録されています。

 非常に短い作品なので、何か奥深いテーマ性などが見えるわけではありません。本当にあらすじの通りで、『フォロウィング』でも主役を演じたジェレミー・セオボルドが同様のパラノイア気味の男を、今回は少々大げさに演じています。
 この作品において特筆すべきは舞台における数々の仕掛けでしょう。ネタバレなしに書くことは困難なのであえて結末から触れますと、男が追っていた「虫のようなもの」は実のところ数秒先の男自身で、それをなんとか叩き潰した直後に今度はさらに大きな自分に叩き潰される、という陰湿なショートショートのようなエンディングを迎えます。このオチに関するヒントは劇中で随所に込められていて、例えば男がやたらと時計を気にしていたり、電話がかかっていることを半ば分かっていたような行動を見せるのもその一つです。観客にほんの少しだけストーリーの方向性を提示することで、フラストレーションを感じさせることなく謎の解明へのスリルを体験させる手法はこの時から片鱗を見せていたのかもしれません。

 とはいえ、所詮は超低予算の短編映画なので、大きな価値があるかと言われると疑問ではあります。しかしながら、この作品で『フォロウィング』に関わるスタッフが揃った事実は紛れもなく重要なことであり、この短編もまた彼のスターダムの足がかりとなったことは間違い無いのです。

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2017/10/11 (Wed) Dolls

dolls.jpg


英題    Dolls
公開    2002年
上映時間  114分
製作国   日本

監督    北野武
脚本    北野武

出演    菅野美穂
      西島秀俊
      三橋達也


あらすじ
 とある男、松本は恋人の佐和子と婚約までしたにも関わらずそれを破棄し、勤める会社の社長の娘との結婚を決めた。式の当日、佐和子との共通の友人から佐和子が自殺未遂を起こしたと聞き、松本は式を放り出して佐和子に会いに行く。そこで待っていたのは虚ろな表情で碌に話すこともできなくなった、変わり果てた佐和子の姿であった。そんな彼女を連れ、松本は当てもなく放浪を始めることとなる。





鑑賞日   17年10月10日
鑑賞方法  DVD
評価    2.5点


レビュー
 たけしが持つ暴力性とは正反対の、繊細である意味ロマンチストな部分が存分に発揮された作品です。日本という文化ならではの死生観や色彩感などを盛り込みながら、極力セリフを廃するという彼の持ち味を前面に出した象徴主義とも言えるそのスタイルは、北野映画の中でも異質の存在とも言えるでしょう。彼の意図したテーマが明確に表現された部分も数多く見受けられますが、それ以上に目立つ未完成のままの脚本の骨子と映像構成の粗、そしてチープすぎる「死」というギミックの用い方。「これまでで一番暴力的」とはよく言ったものです。

 上記のあらすじは、実際には映画のパートの一部分に過ぎず、大きく分けてストーリー上3つのパートがあります。一つ目がその松本と佐和子の物語。二つ目がヤクザのご隠居と彼との再会を待ち望む老婆の話。そして最後がアイドルとその熱心な追っかけである男の話。このほとんど接点のない3つの話が四季に沿って描かれながら、映画の冒頭と終盤には文楽の演目(近松門左衛門の『冥途の飛脚』)を挿入するという、一見凝りに凝った構成となっています。もちろんこの映画のテーマである「人形」や「愛と死」を明示するために用いられているのですが、これがなかなか曲者なのです。

 実のところ、文楽のパートによって提示されたテーマを忠実に追っているのはメインの「松本と佐和子」のみとなっているのです。抜け殻のようでいながら子供のような存在となってしまった佐和子を見かねて、松本は彼女を物理的に離さないように互いを赤い紐で結びつけます。そこから互いにほとんど口を開くこともなくなり、現実とも悪夢とも思えない、幻想的な映像がひたすらに映し出されていくのです。その映像は舞台装置のようなライティングを意図して行うことで、「文楽を映像化する」という監督の一つの目標を成し遂げていると言えるでしょう。さらに放浪の旅を続けているにも関わらず、決して汚れることのない二人の服装もまた、現実から乖離し象徴的に主題を表そうとする目論見に沿って、完璧に計算されています。過去の北野映画でも度々見られた「現実において存立する夢想」という映画的表現の一つの到達点になっていることは間違い無いでしょう。

 しかしながらそれらの完成形も、時折見られる安易なカメラワークや画作りによって台無しにされています。また無意味なメタファーも散見され、前半に至っては自らのアイデアの軽薄さを過剰な象徴主義に走ることで取り繕った学生映画のようです。それはおそらく、北野武が論理と経験によって映像を制作する人間だからでしょう。そのために、本人が明確な体験やそれを通した時に味わう感情を知っている場合は、ヒリヒリするようなリアリティと熱に浮かれたような妄想の見事な融合を見せますが、今回のような描きたいテーマが先行した場合にはそれらがちぐはぐになってしまうのです。

 そして残りの2つのパートに、論理だけで作り上げられたツケが回ってきているのは明白です。「アイドルと追っかけ」のエピソードには光るものはあるものの、2000年代にしてはやや古めなオタク描写や作り込みの甘さが目立ち、さらには映画全体のテーマとあまり上手に噛み合っているとは言えません。特にその結末は酷いもので、詳しくは後述しますが、「死」というこの映画における大きなテーマを台無しにしてしまうほどです。
 「隠居のヤクザ」に至っては、学芸会レベルの出来で開いた口が塞がりません。監督が自身のヤクザ映画の出来損ないのコピーを作っているようなもので、登場人物にまつわるバックグラウンドや長年の人生から見える様々な情感は全く期待できません。「松本と佐和子」だけでは長編映画としての尺が足りないことで付け足されたことは明らかで、文楽というモチーフがあったことをすっかり忘れてしまうほどに、物語の軸から離れたテイストになっています。

 以上の大筋自体もかなり粗があるのですが、何と言っても重要な「死」の用い方が絶望的に酷いのです。監督は以前、これに関するインタビューで「過ちを犯した者が後悔したのちに改心しようと試みるも、それが達成される前に死を迎えてしまう」といった内容の発言をしていた記憶があります(出典が分からず申し訳ありません)。それに対しては重ね重ね同意できることでしょう。実際映画のギミックとして、幸せに到達する直前に訪れる悲劇というものは一種のカタルシスとして機能するものであり、多くの映画でも採用されています。しかしそれが本当に機能するには、そこに至るまでの人物たちの感情の揺れ動きや緻密に描かれた関係性が不可欠であり、それらが不足したまま仮に登場人物が死を迎えたとしても、それが観客に残すものは何もありません。文字通り無駄死になのです。
 残念ながら、「松本と佐和子」以外のエピソードはこの悪手を地で行ってしまいました。埋め合わせとして用意されたのだから当然ですが、「死」を描くための道具としてしかキャラクターが働いていないのです。結果としてテーマを浮かび上がらせるどころか、その意味を希薄にし、映画が持つポテンシャルを見事なまでに潰してしまいました。

 ですが、メインストーリーではその逆で、徹底した象徴主義で描かれているにも関わらず、「死」にきちんと意味を持たせている点はさすがでしょう。その理由は、終盤の松本と佐和子の見せる表情に全て込められています。それまでの徐々に人間から離れていき、人形のような無機質な存在(物語上のメタファーの一つ)と成り果てた二人が最後に人間的になる瞬間は、ただ文楽を映像媒体に移植するのではなく、映画自体が本来持つ魅力へと昇華させることに成功した時そのものなのです。それがあるからこそ、それまでの過剰なメタファーのオンパレードが意味を成し、結末にも奥深い絶望とともに一種の救いが生まれました。

 総合的に見て、もう一度見たいと思える作品ではありませんし、映画そのものへの感想というよりも、素材を活かしきれなかったという残念な気持ちだけが心に残ってしまいました。もしかしたらアイデアはあったものの、商業的側面などから動的なエピソードを盛り込んだのかもしれません。とはいえ、どんな理由にせよ、いっそのこと無理に長編にせずに中編作品として仕上げても良かったのではないかと思うほどです。最近刊行された監督の手による小説『アナログ』も本人は映画化したいそうですが、いやはやどうなることでしょうか。時代に生き遅れ、死を間近に控えたアナログ世代の慰めにしかならないような安易な映画にならないことを祈ります。

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2017/10/10 (Tue) レゴ ニンジャゴー ザ・ムービー

lego_ninjago_movie.jpg


原題    The Lego Ninjago Movie
公開    2017年
上映時間  101分
製作    アメリカ/デンマーク

監督    チャーリー・ビーン/ポール・フィッシャー/ボブ・ローガン
脚本    ボブ・ローガン/ポール・フィッシャー 他

声の出演  デイヴ・フランコ
      ジャスティン・セロー
      ジャッキー・チェン


あらすじ
 ニンジャゴーシティーに住む少年ロイドは、実の父親が悪の帝王ガーマドンであることを理由に、町中の人から嫌われていた。そんな彼の裏の顔は正義の味方グリーン・ニンジャであり、チームのリーダーとしてガーマドンの手から街を守っていた。しかし父親との確執が原因で、ロイドは使ってはならないとされていた最終兵器を使用してしまい、その結果チームは壊滅に追い込まれ、街も破壊されてしまう。名誉回復のため、そして真のニンジャとなるために、ロイドは仲間と共に最終“最終兵器”を探す旅に出る。





鑑賞日   17年10月7日
鑑賞方法  映画館
評価    3点


レビュー
 レゴの映画シリーズもついに3作目、スピンオフとしては2作目ですが、今回はレゴ自身が持つおもちゃライン「ニンジャゴー」の映画化です。とはいえ、元々人気のシリーズだったため、すでに子供向けの3Dアニメとしては映像化されていて、それもすでにシーズン7に達しているとのこと。それをいかにして、映画という媒体ならではの表現を用いて調理をするかが見ものでしたが、良くも悪くも「子供向け」というカテゴリーからは離れていないアニメに仕上がっていました。

 『レゴ バットマン』ではDCおよびワーナー・ブラザース映画のパロディのオンパレードでしたが、今回は戦隊ヒーローや古き良きカンフー映画などからのオマージュをメインに笑いを生み出しています。忍者にも関わらず、真昼間の大都市をロボットに乗り込み戦う様は日本人には別の意味で笑いがこみ上げてきますが、そういったバカらしさも含めて難しすぎないジョークに好感が持てます。ただこのシリーズの問題として、言葉遊びが多数見られるため、その全てを字幕・吹替では楽しむことができないのが難点でしょうか。上のポスターにも記載されている「内なるピースを探せ」という言葉も、「内なる平和(ピース)を求めよ」という『ベスト・キッド』フォロワーでは定番のキーワードを文字っていますが、これですらもなかなか表現が難しい。

 そうはいっても、これらの問題点はまさに1ピース1ピース、子供向けだと思って妥協せずにこだわり抜いて作られていることに起因しているのでしょう。幅広いターゲットに楽しんでもらおうと製作陣が試行錯誤した形跡を、簡単に推し量ることができます。ですが、やはりベースとなっているのは子供向け玩具の子供向けライン。初期の敵であるガーマドンを主軸としたストーリーに決着をつけるために、展開は詰め込みすぎのきらいがあるのです。
 序盤のロボット同士の戦闘はレゴ映画シリーズ中でも屈指の迫力で、とても手のひらサイズのミニフィグが繰り広げているとは思えませんが、実際はほとんどが起承転結の「起」に相当する部分なので、そのあとの落差も含め退屈に思えるでしょう。また主人公ロイドの友人たちで、同様にニンジャでもある面々のストーリー上の活躍が実質ここがピークであることも期待はずれでした。普通の学生が実はスーパーヒーローで…という誰しもが憧れた展開で学園生活は不可欠な要素ではないのでしょうか。もちろん後述する大テーマがあるため、とてもじゃありませんが盛り込めないことは理解できますが、それでもあれだけユニークなキャラクターたちがもったいないというのも事実なのです。

 さて、ではこの映画のテーマは一体なんでしょうか。「努力を怠らなければ誰しもが強くなれる」? 「信頼こそ仲間との友情の鍵」? 「親子の愛情は簡単に断ち切れるものではない」? 脚本で重点が置かれているのは一番最後でしょう。ロイドとガーマドンの関係はなかなかにハートフルで、彼らが旅を通じて親子としての情を取り戻す様子も非常に丁寧に描かれています。ジム・クローチの"I Got a Name"をバックに2人がキャッチボールの練習をする場面で、心が温かくならない人は絶対にいません。
 しかしながらそのほかのテーマもそこそこ描きたいのか、結果として終盤の展開はアクションを除いていまいちまとまりが無いのです。どれもが他のレゴムービー同様に奥深い主題を提示できる可能性があったにも関わらず、そのどれもが中途半端なために「クオリティの高いTVムービー」の域を出ないのが残念なところでしょう。

 80〜90年代のカンフー映画、それに影響された子供向け映画の数々を今でもこよなく愛する人にとってはなかなかに楽しめる映画でしょう。(当然ジャッキーの起用にも意味があります。)時間を割いてまで見る必要はないかもしれませんが、見て後悔するような代物でもない。それどころか少しだけほっこりした気持ちにしてくれる、とにかくまあまあな映画なのでした。

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